History

創立者
前田若尾
について

洗足学園100年の歴史は、まさに大正12年の関東大震災の灰燼かいじんのなかから誕生する。震災による甚大な被害により社会情勢が悪化し、就学の機会を失った娘たちのため、自宅の2階を開放して夜間の私塾を開いた前田若尾は、やがて敷地内に校舎を建て、大正13年6月2日平塚裁縫女学校を開校する。

前田若尾の生涯を描いたミュージカルを見る

学園の母 前田若尾先生

大正12年9月1日の関東大震災の灰燼のなかから奇跡的に助かった前田若尾のその後の人生は、すべてを女子教育にささげ、ただただ誠意と熱情をもって、今日の洗足学園の基礎を確立して燃え尽きた一生であった。それは剛胆にして清廉、至情あふれる「明治の女」の一典型でもあった。

本学園の創立者前田若尾は、明治21年(1888年)10月21日、高知市潮江新町に前田金太郎の4男2女の長女として誕生した。当時なお健在であった祖父鉄太郎は、元高知藩士で義侠心に富み、常に漢籍をたしなみ、趣味多く、その峻厳恪勤の気風は、幼い若尾の人格形成に大きな影響を与えた。

大正3年 25歳 上京
東京女子専門学校の前身である渡辺裁縫女学校師範部 入学
大正6年 3月 同学校卒業、中等教員裁縫科免許状受領
キリスト教の洗礼を受け、青山女学院に奉職(裁縫科のほか聖書講義を受け持つ)
大正11年 働く女性の中に身を投ずべく、青山女学院を辞めて保土ヶ谷にあった日本絹撚会社に転職し、女工監督の仕事についた。
大正12年 9月1日 関東大震災発生
前田若尾は多くの人々と共に屋根の下敷きとなり、梁に右足をはさまれたため、苦しみ呼ぶ人々を救うこともできず、必死に祈りに祈ったのが天に通じたのか、再度の大揺れで足が抜け、暗黒の中にはいまわって燃えさかるかまどの火を消し、やっと自由の天地に出られ九死に一生を得た。
前田若尾は、残る半生を女子教育にささげようと誓った。

コラム1 「大自然の威力とその恩恵」

コラム2 「いずれが親心」

草創期

平塚裁縫女学校

大正12年(1923年)11月~大正15年(1926年)3月

裁縫女学校の設立
大正12年 前田若尾36歳 東京府荏原郡平塚村戸越の自宅の土地730平方メートルに建つ自宅の2階を、震災で希望を失った娘たちに開放して裁縫塾とした。 授業料その他は一切無しということにし、生徒は十数名募って熱心に授業が開始された。その後多くの人びとの援助によって校舎を建築する。
大正13年 5月3日 平塚裁縫女学校設立の認可がおりる。
6月2日開校 開校式に列したのは生徒6名。
その後日増しに増加して、学年終わりには昼夜間合計40名となった。

コラム3 「記念日を迎えて子等に諭す(生徒速記)」

大正14年 開校2年目を迎え、生徒数は急増した。
昼間部本科1年 23名
選科1年 17名
本科2年 25名
選科2年 20名
夜間部1年 20名
夜間部2年 16名
総計 121名
成長期

洗足裁縫女学校

洗足高等女学校

大正15年(1926年)4月~昭和20年(1945年)3月

着実な進展を見せるが、戦時体制下となるや、長く暗い茨の道をたどることになる。

高等女学校誕生まで
大正15年 3月26日 小山教会附属幼稚園を借り受けて、選科及び夜間第一回卒業証書授与式を挙行
4月19日 東京府荏原郡碑衾ひふすま町碑文谷にて、校舎の定礎式を挙行
5月1日 洗足高等女学校設立認可

当時の生徒数

裁縫女学校 本科、選科、夜間部計100名
高等女学校 37名
「洗足の由来」

高等女学校が建てられた場所は、当時碑衾町碑文谷と呼ばれていて、現在の地名目黒区洗足ではなかった。校名の「洗足」の字義は、新約聖書ヨハネ伝13章のなかから得たものである。
キリストは処刑される前夜に12人の弟子と最後の晩餐をともにした。その席上自ら水をたらいに汲み、弟子たちの足を洗い清め「我は主または師なるに、なお汝らの足を洗いたれば、汝らも互いに足を洗うべきなり。 我汝らに模範を示せり、わがなせしごとく、汝らもなさんためなり」と教えた。この教えにこめられた精神は、謙譲であり、愛であり、犠牲であり、奉仕である。 愛の心をもって互いに他人の苦痛を分かち合い、世の混濁を清める犠牲的奉仕の心こそ、真の福祉への導きとなるゆえんであり、勉学に励んで知識の向上を図る一面、愛による奉仕の精神を養うことが学園の理想とするところである。 「洗足」の校名はこれに基づく。

建学の精神

若き学徒をして、
真の人生の目的に目覚めさせ、
さらに人間の天職を悟らせ、
謙虚にして
慈愛に充ちた心情(謙愛の徳)を養い、
気品高く、かつ実行力に
富む有為な人物を育成する。

校章・校歌の制定

昭和2年9月12日

校歌とともに制定された校章には、3つの表象が込められている。

外形・・・八咫鏡やたのかがみ。三種の神器の一つであり、日本民族古来の伝統的国家精神を表し、反省・謙遜・服従・純潔を象徴している。なかの赤いハートは赤心を表し、真心・至福の象徴。

※赤心とは飾りのない真心

校歌の作詞は前田若尾校長、作曲は同校音楽教諭の柴田すゑ。

教育方針
伸びゆく学園

高等女学校の生徒数は昭和2年度70名→昭和5年度260名に達した。

昭和3年 1月9日 平塚裁縫女学校の校名改称 認可 「洗足裁縫女学校」となる
昭和4年 3月 第1回の高等女学校卒業生32名、裁縫女学校36名を世に送り出した
昭和5年 10月13日 財団法人の設立認可(以後学園創立日と定められている)
昭和6年 9月18日 満州事変が起る
昭和8年 前田若尾校長、9月1日より執筆中の「教育と実際」10月21日に脱稿
昭和10年 9月16日 洗足高等女学校生徒定員変更の件、認可
生徒定員500名→700名
昭和11年 5月22日 洗足裁縫女学校は校名を目黒家政女学校に改称
昭和11年 9月20日 前田若尾校長「地軸の探求」脱稿

正門から見た洗足高等女学校

校長室の前田若尾校長

昭和15年 11月13日 洗足高等女学校創立15周年、目黒家政女学校創立17周年 記念式典挙行
昭和16年 太平洋戦争勃発
学校工場の開始

やがて下級生は近所の軍需工場へ、上級生は数ヵ月にわたって熱海や伊東の工場にまで勤労させられるようになった。

昭和18年4月 戦時体制に応ずるため、中学校、高等学校(旧制)の修業年限がそれぞれ4年、2年に短縮された。
昭和19年 生徒は次々と疎開を開始。
昭和20年 3月 第16回卒業式挙行(5年卒業181名、年限短縮による4年217名)

前田若尾校長授業風景

復興期

洗足高等女学校
洗足学園女子中学校・高等学校

昭和20年(1945年)4月~昭和28年(1953年)3月

戦災による全校舎の焼失と戦後教育学制の大改革さらに前田若尾校長の逝去という多くの試練にもめげず、溝ノ口教場の確保をはじめとして、女子中学校、女子高等学校、幼稚園、小学校を次々設立し、数次にわたる復興建築を行うなど、後継者たちによる復興の意気盛んなる時代である。

全校舎の焼失
昭和20年 5月24日 洗足高等女学校の全校舎焼失
24日、25日の両日、米軍250機による東京空襲があり、都内ほとんどが焼野原と化したが、本校も24日払暁の空襲のため、一瞬のうちに4290平方メートルの校舎も各種記念物を保管してあった憩の家もすべて烏有うゆうに帰してしまった。焼跡に残った校門前に次々に状況を知らせる掲示を出す。

全焼した校地跡に立つ前田若尾

昭和20年 5月27日 前田若尾校長、校舎借用の件につき、いしぶみ国民学校を訪問
昭和20年 5月29日 職員会議を開く
近くの国民学校を借用。授業を続けること、6月2日から焼跡整理に当ることを決める。
昭和20年 6月1日 全校生徒集合による復興式を挙行(生徒563名)
涙を流しながら話す前田校長の再起の決意は、一同に復興の決意を固めさせた。
昭和20年 6月19日 近所の碑国民学校に4教室を借用し授業開始
昭和20年 7月、8月 事態はますます緊張を加え、大半が工場へ勤労動員として出動
学校も空襲のためしばしば休校を余儀なくされるに至った。
終戦直後の学園
昭和20年 8月15日 終戦
在校生の約3分の一が罹災したが、死傷者のなかったことは奇跡的なことであった。

焼跡で初めて挙行された入学式

昭和20年 10月14日 合同運動会開催
昭和20年 10月16日 全校向ヶ丘遊園まで往復10キロの遠足
昭和21年 1月17日 目黒家政女学校 廃止

溝ノ口校舎の建設

昭和21年 5月23日 国有財産として保管されていた川崎市久本所在、日本光学工業株式会社川崎製作所工場(旧海軍施設)の建物11棟6,666㎡(約2,000坪)、敷地30,812㎡(約9,300坪)の使用認可を得る。
新しき学園の開幕園
昭和21年 6月10日 新校舎にて授業開始
9月4日の第2学期には生徒数765名、学級数12
昭和22年 3月25日 第18回高等女学校卒業式(53名)

この日前田若尾校長は2月16日以来、中野病院に入院中のところ病をおして出校
これが最後の卒業式となる

前田若尾校長が臨んだ最後の卒業式

昭和22年 3月31日 洗足学園女子中学校の設置について東京都長官宛申請
昭和22年 4月1日 洗足学園女子中学校設置の件認可、直ちに開校する
旧高等女学校の第2・3学年を新中学の2・3年に編入
この時より「洗足学園」の呼称が始まる
前田若尾、洗足学園女子中学校長に就任
昭和22年 4月11日 女子中学入学式挙行(153名)
前田若尾校長の逝去

昭和22年10月6日 午前7時30分
理事長兼校長 前田若尾逝去(享年58歳)

生前未刊の著<若木の桜>に、
「一難去って又一難の生活です。しかし、いい加減な生活の出来ない私には、この難儀が、却って喜びでもあります。『一生を戦いぬいた人』私の墓碑銘にはこの言葉を残したいものだと考えております」と記した前田若尾の死は、まさに壮絶な教育戦士の死であった。

10月11日 午前10時より本講堂において校葬を行い、青山霊園に埋葬された。

昭和22年 10月16日 学園新組織成る
財団法人
理事長 前田澄子
理事 前田豊子
昭和23年 洗足学園女子高等学校開校
洗足学園幼稚園開園
昭和24年 洗足学園小学校開校
昭和26年 11月10日 創立25周年記念式挙行
故前田若尾先生銅像除幕式が行われた
前田若尾校長 遺詠

子らにあふその嬉しさにけふもまた痛み忘れて日は暮れにけり
わが命惜しからねども教へ子の上を思へば死なれざりけり
御心にまかせあゆまむ苔の道も今はたのしき花園のごと
めし給ふ日も近からむまちまてる子らの祈も神ききまさで
身も魂もみがき清めて昇りなむあまつ御国の門ぞ開かる
いたつきの床に六十路をふりかへり感謝にあふるゝけふの嬉しさ
とことはに我が学び舎のさかえよとあまつみくににわれは守らむ

悲しみに包まれた校葬