History

創立者
前田若尾
について

コラム3
記念日を迎えて子等に諭す(生徒速記)
前田若尾「教育と実際」より

あの大震災の当時、私は平塚(※1)村の戸越に居をかまえ、保土ヶ谷に勤務していたのでしたが、その頃あのあたりは未だ人口も少なく、畑や田がずっとつづいていました。 しかるにあの大震災の後には、市内から移転して来るものが、陸続として相つぎ、当時の平塚村は、一躍人口五万余を数えるようになりました。その時私は、仮普請かぶしんの小山の駅に立って、三日間眺めました。 今まで裕福に女学校にでも行っていたらしい女性が、あの大震災に追われて、生活の根底を奪われて、弁当を持って、なれない体つきで働きに出かけてゆく姿が、その時いたましくも目に映ったのでした。 毎日六七十人を数えるその女性は、皆家のためにと出かけてゆくのでありましょう。私はその人から目を離すことが出来ませんでした。そしてその時、私の頭に閃いたのは、あああの娘達を堕落させてはならない。 正しい国民として、国家のお役に立てなくてはという考えでありました。強い決心のもとに私は、自分の住んでいる家の八畳二間の二階を校舎にあて、無料で夜学を始めようとしたのでした。 あのたくさんな働きに出る女の人々、せめて三四十人位は来てくれるであろうと望みをかけて、二千枚のポスターを書いていただき、自分が貼りにまわりました。十枚に一人、千枚に百人との希望を持ちながら、自分で煮た糊をバケツに入れ、それをさげて、あの道この道をさまよいました。 その後の発展に、すっかり道もかわりましたけれど、それでも今日至るところに、私の戦いのあとを見ることが出来ます。真直ぐに丁寧にと貼ってあるくポスター、それが帰りに見れば破られているのもあります。風にあおられてはげたのもあります。果たしてどれだけの人の目についたことでありましょう。 これでは役に立たないのだろうか。どういう方法を取ることが一番いいのだろうか。こう考えて眠れない日が幾日あったことでしょう。一人二人と来る生徒を数えているうち、千枚のポスターに六人の生徒が得られました。開校式に列したのは、生徒の六人に対し教師が八人、そして付き添いは七人いました。 それから苦心に苦心を重ねているうちに、三四十人になってきたのであります。そこで、家の側にバラックを建て、許可を得て夜学の平塚裁縫女学校が出来上りました。それがこの洗足に移転して、昼夜の学校として洗足裁縫女学校となったのであります。洗足に移転の時、洗足高等女学校を並立することにしました。 そして今日、生徒は六百に近く、学校としての形式も、まず整うようになりました。大正十三年五月一日に平塚裁縫女学校という長女が生まれ、大正十五年三月三日には洗足高等女学校という、後とり息子が生まれたのでありますが、その子供達を、お役に立てていただこうと国家に献げましたのがこの十月十三日であります。 人間は生んだだけでは駄目であります。それを立派に養育して、お上のお役に立てなくては何にもなりません。この学校は九年前に播かれた種によって、昭和五年十月十三日財団法人として、国家に献げたため、実が結ばれたのであります。私はこの有意義なる日を創立記念日と定めて、今後の発展を期したいと思います。

ところで私は、自分がバケツを下げ、ポスターを貼ってあるいたことを追想するのであります。大方私の髪は乱れていたでしょう。着物もだらしなくなっていたことでしょう。しかもそんなことは考えずに、すべてを忘れるほどの真剣味で、百枚二百枚三百枚とああして貼ってまわったその時の気持ちは、今思っても涙ぐましいものがあります。 もし私が誰か見ていはしないだろうか、何かいわないかしら、恥ずかしいことだなどと、くよくよして自分の身振りのみをかまって、自分の正しい目標をおろそかにしていたならば、決して学校は出来上りません。そして今日の喜びは与えられなかったのであります。今後のあなた方に、この点を十分考えてもらいたいのです。 未来にあこがれをもって進むためには、現在の勤めを正しく行っていかなければならないのであります。手鍋さげても何でも、恥ずかしいことはありません。人が見て笑いはしないかというように、すきのある人は大事は成しとげられません。自分のきめた、正しい目標には、人が何といおうが、確固とした決心をもって、進んでゆかなければなりません。 「彼等はそのなすところを知らず」。冷笑れいしょう嘲罵ちょうばに報いるに、この語をもってするだけの決心がなければなりません。本校の標語である「理想は高遠に、実行は卑近より」をこの日に十分決心してほしいものであります。

※ 旧漢字・旧仮名遣いは現代文に変更

前田若尾「教育と実際」(1933)

注釈

※1 平塚村…現在の東京都品川区。