創立者
前田若尾
について
コラム1
大自然の威力とその恩恵
前田若尾「教育と実際」より
大正十二年九月一日、突如、大地は激浪のごとくに揺れ動き、建物は俄然崩壊しました。人は我先にと安全の場所を求めるため、最も恐るべき火の始末を忘れ、ついに未曾有の大災害が起こったのであります。東京は、横浜は、その付近は、ほとんど焦土と化しました。しかもこれは、我々を呼び覚ますひとつの警鐘でありました。絶大の威力を示された大恩恵でありました。この時震災の洗礼を受けたものは、等しくこれを天譴と呼びました。
その頃、私は、神奈川県保土ヶ谷の絹撚会社に、女工取締として勤務していました。土曜日の午後には、一部の外出を許すことになっていましたが、ちょうどその日であったため、事務所に入って来た二人の女工を前にして、私は金を両替して渡し、次に二階に寝ている病人のためにと、調えてあった粥の鍋を持って立ちあがり、階段に足をかけた刹那、大音響と共に家はつぶれてしまいました。 水田を埋めて周囲を煉瓦で囲んでいる建物は、実にひとたまりもなく、崩壊してしまったのでした。あわててはいけない、這って這ってと、思わず大声を挙げましたものの、横たおしになった私の右足の上には、梁が落ちて来て動くことが出来ません。暗黒裡に思わず瞑目すると、助けてくれの声々、先生、先生の叫びが、遠く近く四方から聞こえて来ます。ふと炊事場の火のことが頭に浮かびました。 今や盛んに燃えているあの多数の大竈の火が、もし他に移ったならば、この大建物に火災が起こったならば、この中にいる多数の人─逃げ遅れて埋められている人のすべては、焼死しなければならないのであります。またこの急の場合、幾人の人が建物の外に出られたかを考えると、本当に心配で足一本を切り離してでもと、ありたけの力でもがきました。その間にも、助けてくれ、先生、先生の声は聞こえて来ます。 私はもがいても、もがいても自由になりません。足への重みは刻々に加わって来ます。痛みはひどくなります。ああ、このまま私が苦痛に耐えかねて、意識不明になったなら……、私はそれこそ心からの祈りを捧げました。私はどうしてもこのまま死ぬことは出来ない、と思っているその間の時間の長さ! 永遠にこのままかと思われる長さ!
何分の後か、次の大ゆれにやっと足が抜けました。幸いに甚だしい怪我でもなかったので、暗黒の中を這いまわって、それと思われるところに出た時、釜の下の火のみ赤々と燃えていました。茶釜はまだそのまま沸騰しています。その側にたどりついた私は、上にかかっているその茶釜を、手でひっくりかえしました。一つ二つ三つ四つ、不思議に熱くも何ともなかったのです。しかし灰神楽(※1)のため、息が出来なくなりました。 水道栓から水は少しも出ません。これが最期かと思ったものの、やはり耳に聞こえて来る先生、先生の叫び声のためには、勇気を奮い起さねばなりませんでした。ちょうどその時、また大きなゆれがあって、棟と棟とのつづいているところの屋根に、あかりがさしたと思うと、そこが両方にパッと開きました。ああ、天の助け、私は感謝に胸がはりさけるようでした。急いで伝って、二階の屋根まで出た時、先刻の二人のものが、窓際で足をうたれ腰を抜かしていました。 何とでもして広場に出るようにと申しつけて、次に二階の病人に声をかけましたところが、まるきり返事がありません。これでは仕方がないと断念して、工場にまわると、主任や事務員やと一緒になることが出来ました。そこで色々相談し、手わけして、男女工三百余人の安否を調べることにしました。工場の中央にいた人、それは忽然の暗黒中に閉じこめられたものの大多数は、怪我もなく出て来ることが出来ましたが、逃げ出しかけた人は、皆出口のあたりで、下敷きになっていますので、怪我の程度が判りません。 その間も絶えぬ大地の震動に、立ってもいられぬ有様でありました。ようよう方々掘り出して、無事の人を広場に集め、怪我人を一方に収容し、死屍はまた、ようよう取り出した畳の上にねかし、点呼のうえ、十四五人不足のことを確かめました。私は元気の阻喪(※2)を恐れて皆に話をするために集まってもらいました。その時の私は、本当に世の滅亡の時が来たと思いました。日本中否世界中がこの災難にかかったと思ったのでした。 そこで、旧約全書にある神の怒りのことを談り、ノアの洪水の話をして、こうして死を免れた自分達の幸福を、感謝すると共に、今後生命がけで、使命を果たすため、すべての処理にあたらねばならぬこと、一碗の飯もわけて食う心持が大切なこと、すべて命令を遵奉すべきことを説きました。男工女工も、普段から非常に従順であったため、この場合も、皆絶対服従を誓ってくれました。 私は仏教尊崇の工場主任の意思を尊重して、いつもは皆を集めて祈るというようなことは、全然しなかったのでありますが、この時は本当に一心不乱の祈りを捧げました。主任も跪いて祈ってくれました。
それからのちの一カ月、私は何を見、何を聞き、そしてまた何をしたか、思いだしても胸がおののきます。しかしこれを機会として、残る半生を人のために捧げたいという考えを一層深くしました。終生の事業として、こんにちの仕事に従事し、空拳をもって物質的に、また精神的に、何ものかを作り出そうとした動機が、あの震災であったと考える時、天が一度私を葬って、しかして再びこの世に生あらしめたことが、いたずらでないことを感じます。 あの頃の人心の緊張ぶりは、あの大惨事を天譴として受け入れようとした心持にも見られます。ただ熱しやすく冷めやすい我々の仲間は、年毎に繰り返されるこの震災記念日によって、当時の苦痛を反復して、大自然の威力に慴伏し、恩恵に感謝したいものであります。
※ 旧漢字・旧仮名遣いは現代文に変更
前田若尾「教育と実際」(1933)
注釈
※1 灰神楽…火鉢など、火の気のある灰の中に湯水をこぼして、灰の舞い上がること。
※2 阻喪…気力がくじけて勢いがなくなること。また、気落ちさせること。