松本 健司Kenji Matsumoto
[クラリネット奏者]

神奈川県横須賀市に生まれる。
1997年、パリ国立高等音楽院クラリネット科を首席、および、レオン・ルブラン特別賞を得て卒業。
96年、第4回日本クラリネットコンクール第2位。
97年、第22回トゥーロン国際音楽コンクール第3位、第53回ジュネーヴ国際音楽コンクール・ディプロマ受賞。
現在、NHK交響楽団クラリネット奏者 他

音楽との出会い

 母がピアノの先生だったので、生まれたときから常に音楽が流れていました。生徒さんのレッスン中にピアノの下で寝てしまうような赤ん坊だったそうです。
 小学校4年生のときにピアノとソルフェージュを習い始めましたが、それまでもエレクトーン、バイオリンを習っていたりもしました。でも練習もしないでいつも「弾けない!」と嘆いていました。当たり前ですよね(笑)。

 クラリネットとの出会いは、小学校の音楽鑑賞教室です。小学校4年生の時、通っていた小学校に日本フィルハーモニー交響楽団のオーケストラが来てくれました。演奏を聞いていて、なぜかクラリネットの音だけが私の耳に飛び込んできたのです。その瞬間、「これが吹きたい!」と強く思ってすぐに両親に相談しました。でも、私の飽きっぽい性格から両親もすぐには了承してくれませんでした。とにかくいろいろな習い事を3ヵ月で辞めていましたから、「クラリネットも長くは続かないだろう」と思ったのでしょうね。それでも私はずーっと「クラリネットを吹きたい!」と言い続けて、小学校5年生の時にレッスンに通えるようになりました。楽器を手にするまで1年かかりましたね。最初についた先生は角田晃先生。基礎的なことはもちろん、楽器の組み立て方からリードの付け方、色んなことを教えて頂きました。

「N響に入りたい!」 夢の始まり

 小学校5年生のときに、テレビで偶然N響アワーを観ました。曲はベートーヴェンの「交響曲第2番」。クラリネットが大活躍する曲です。テレビでアップになったクラリネット奏者を観て、「うわ〜この人カッコイイな〜!!こんな人になりたいな〜!」と子どもながらに感動しました。翌週のレッスンで角田先生に「N響に入ります!」って言ったことを覚えています。思ったことがすぐ口から出ちゃうんです(笑)。でもそれくらい憧れてしまいました。そのN響のクラリネット奏者は浜中浩一先生でした。

 そんなあるとき、地元でN響の演奏会がありました。クラリネット奏者はテレビで見ていたあの憧れの浜中浩一先生。演奏会が終わって楽屋口に行って、浜中浩一先生にお花を渡して、サインをもらいました。それから2ヶ月後に別の演奏会で先生にお会いする機会があり、その時に母が「この子にレッスンを受けさせてほしい」と浜中先生にお願いをしたのを覚えています。小学校を卒業した春休みに初めて浜中浩一先生のレッスンを受けまして、その時にも「N響に入りたいです!」と宣言。ここから全てが始まっていきましたね。

クラリネットに夢中だった学生時代

中学に入ってからは、角田先生と浜中先生のレッスンをダブルで受け、さらに他の先生のレッスンにも行き、音楽高校に進学してからは学校でのレッスンもあったので、クラリネットのレッスンだけで月12回も受けるようになりました。授業以外にもプライベートでピアノやソルフェージュのレッスンにも通い、あとはフランス語も習いました。なぜフランス語なのかというと、憧れの浜中先生がフランスに留学されていたので、だったら「僕もフランスに行かなきゃ!」という単純な考えだったのですけど(笑)。そんな忙しい中学高校時代でした。

衝撃のクラリネット、パリ国立高等音楽院への想い

高1のときに角田先生からとあるコンサートの招待券を頂きました。そこに出演していたのがクラリネット奏者のミシェル・アリニョンさん。曲が始まって、彼のソロが始まった瞬間、自分の頭の中が『ボンッ!』と弾けたのです。気が付いたら拍手をしていました。そのときの演奏は全く記憶にないです。それくらい衝撃を受けました。いつかこの人にクラリネットを習ってみたいと思うようになりました。
その想いは叶って、高校を卒業する時に京都フランス音楽アカデミーのマスターレッスンに申し込み、ミシェル・アリニョンのレッスンを受けることができました。1〜2週間のレッスンの中で、彼が教鞭を執るフランス・パリ国立高等音楽院への留学の想いが固まりました。

奏者の誰もが目指すパリ音楽院へ留学

 音大に入学し、最初の浜中先生のレッスンで、奏者の誰もがパリ音楽院に留学したいと相談しました。しかし、「まだ早い!」と答えはNO! その次の年も先生に相談しましたがOKは出ませんでした。3年生の時は無理だろうと思ってあえて言わなかったところ、先生の方から「そろそろフランスの講習会でも受けに行ってみたらどうだ」と言われたのです。突然言われて驚きましたが、とっさに「ついでにパリ音楽院の入試も受けてきていいですか?」と聞くとOKが出ました。

トゥーロン国際コンクール 2次予選リハーサル

ようやく許可が出たわけですが、当時パリ音楽院のクラリネットの年齢制限は21歳だったのでチャレンジできるのはこの一度だけで、そこで合格しなければとかなりのプレッシャーでした。二日間に及ぶ試験はとても難しく、2次試験の初見演奏の出来はボロボロでした。初見演奏の課題は「これ1週間位時間ください!」と思うほど。でも周りのみんなもボロボロだったみたい(笑)。 「もう絶対に無理だ!」と諦めていましたが、どうにか合格することができました。名前を呼ばれたときは飛び上がりたいくらい嬉しかったですね。でもそんな気力もないほどに疲労困憊してました(笑) 。

トゥーロン国際コンクール セミファイナル発表中

トゥーロン国際コンクール 本選表彰式後

パリ音楽院のレッスンはとても厳しく、自分以外はすべて敵!みたいな環境で過ごしていました。周りのみんなは素晴らしい人ばかりで、全員上手い。自分は落ちこぼれだと思っていました。どうにかついていこうと練習方法を試行錯誤していました。その時にお世話になったのはアリニョン先生のアシスタントのジェローム・ジュリアン・ラフェリエール先生で、口の形のことやいろいろなことを相談に乗ってもらいました。なので、今では学生に対しても口の形で悩んでいる子たちの気持ちがよくわかります。

パリ・コンセルヴァトワール日本人留学生たちと

憧れのN響

 パリから帰国後、3年間はいろんなオーケストラに客演として呼んで頂きましたが、オーディションはN響しか受けませんでした。本当に行きたい!と思うところしか目に入っていなかったんですね。
 憧れのN響に入るためには、N響の求める音に自分の音を変える必要がありました。パリの音ではダメなんです。そして無事、第二奏者として入団することができました。
第二奏者としては2002年〜2010年の8年間活動して、2010年に第一奏者のオーディションがあったので受けました。通常内部からだと一次審査が免除なのですが、セクションから「平等じゃないから健司も最初から受けようか」と言われ一次審査から受けました。同じ楽団のオーディションを二回受けたんですよ(笑)。

 第一奏者になるとやるべき事も変わってきました。第二奏者の時は初めて見る楽譜だと自分の事だけに集中してましたけど、第一奏者の仕事は指揮者やコンサートマスターとのコミュニケーションだったり、それを木管4人と意思疎通したり、さらに(クラリネットの)2番・3番に伝えないといけないから、自分の事だけじゃいけないんですよね。それに気付くのに時間が掛かりました。

洗足学園音楽大学でのクラリネット指導について

 N響に入団して3年ほど経った頃、洗足学園音楽大学に入りました。職員の方も生き生きしているし、学生も楽しそうで、洗足はとても良いエネルギーが流れているなという印象を持ちました。
 普段気をつけているのは、あまり手取り足取り指導しないこと。私はトレーナーではありません。レッスン室で出来たとしても部屋を出た途端、その学生は自力で出来なくなってしまう。自分一人でも求める音楽を見つけ出せる力、作っていける力を身に付けさせる為にはどうすればいいか、ということに気をつけていつも考えています。ゆくゆくは自分一人でやっていかなければいけないですからね。

 自分自身も学生の頃はいつまでも先生に頼っていたらいけないと思っていて、まずは自分でやってみて、困ったら相談しに行けばいいや!というスタンスでいました。それとコンクールは25歳までで受からなければクラリネット奏者になるのを諦める。その時までに賞を獲る!というスタンスでいました。それぐらいの意志がなければこの世界でやっていけないと思い込んでいたのでしょうね。

演奏家にとって必要なもの

 健康管理と休養と「常に向上心」。食べ物でもなんでも常により良いものを求めてしまいます。
パリでのお金のない学生時代でも「いつかこの生活水準を上げてやる!」という向上心がありました。あとは「夢」とか「あこがれ」。私自身、N響に入れるとは思っていませんでしたが、「N響に入りたい!」という気持ちを忘れたことはありませんでした。思い続ける事がとても必要なんだと思います。今も常に「こういう音を出したい!」と思っています。
 自分をより高いステージに上げていきたい。これで満足したらいけないと常に思っていますね。